なぜ《テレビ》に固執し続けるのか?

日本のリーディングカンパニーであったシャープやソニーそしてパナソニックが莫大な赤字を出して話題になっていますが、再起をかけると気合をいれているようには伝わってきますが、それがどうしてまたテレビなのか私には理解できません。

 なぜこの人たちは、テレビという製品にこうこだわり続けているのでしょうか。
 今の時代、テレビだろうが、パソコンだろうが、ipadだろうが本質的にはどうでもいいのではないでしょうか。今の時代、本質とは、情報だろうと思います。では情報とはなんでしょうか。ハイビジョンやFullHDや次の規格の画質も確かにいわれてみれば情報といえば言えますが、画像の情報量は、本質的な部分でしょうか。量が質を転換させるととでも、考えているのでしょうか。私には、そんなことは、どうでもよい末梢的な技術的問題としか思えませんが、日本の技術者たちは、そこに次の金のなる木をみているようですが、そんなものは、本質的に見る目を持ってくるようになった消費者たちには、そんなに魅力的には写りらないのではないでしょうか。 匂いや肌の感覚器官の情報が双方向でやり取りできるレベルになれば、質的転換になるかもしれません。

 インターネットが一般化し、動画サイトが立ち上がったころ、すでに放送とおなじポテンシャル、新しいポテンシャルを生み出そうとしていたころでも、放送と動画は違うと思い込んでいた古い頭の人々と同じ思考回路を感じます。私たちは、テレビだろうが、パソコンだろうが、タブレットパソコンだろうが、携帯だろうが、そのインターフェイスを通じて、何かを交換しているわけです。テレビやパソコン、携帯などは単なる情報のインタ―フェイスでしかありません。それを使って、私たち人類は、どのような新しい地平に行けるのか、その先にどんな世界が開けようとしているのか、どんな暮らし、どんな世界を実現したい思っているのか、そこに技術開発の真髄があるのではないでしょうか。

 そのためには、技術者たちが哲学をもつことです。技術のことしかわからない技術屋など、現代のようなコンピュータ化が進展した今の時代、いずれ他の後進国が、安い人件費でやり遂げてくる時間の問題です。しかし、哲学的な地平は、文化的な行為ですから、それはおいそれとは他国には模倣はできません。そんな観点から技術開発していくしか、競争に耐えていくことはできないだろうと思います。

NHKの受信料問題 4

5月14日付けの各社報道で、NHKの受信料を勝手に契約書を偽造して徴収していた事件が報じられていました。
 前々から私が論じているように、このような事件はNHK受信料に関しては、氷山の一角ですから、今一度このNHKという放送団体について、白紙に戻して、日本国に必要なのかどうか、必要ならどのような形が望ましい組織としてありうべきか、国民で議論すべきです。
 
 NHKには営業部というれっきとした営業専門の部署があり、相当なスタッフが存在しているのにもかかわらず、現場での一番汚い(つねにトラブル絡みになる危険性を秘めているからです)契約取次ぎと徴収業務は、新聞記事にあるように、委託会社に受け負わせているわけですが、これ自体がそもそもおかしな話なんです。
 法律で、義務化されているのに、わさわざ営業部という部署を作って、公金でスタッフを養っている無駄をしているわけです。しかし、実際の営業活動のほとんどは、外部の会社に委託して、なにか事件があれば、トカゲの尻尾切で、現場の責任にして終わりです。とにかく、その姿勢は、公務員とまったく同じで、とにかく自分たちには責任が及ばないように工夫しています。
 
 この事件を引き起こした会社員が、この契約書偽造を行ったのが2月29日付となっていますが、この日付からすると、ノルマについての圧力があったことが推測されます。月末ですので、なんとか達成しようと必死だったのだろうと思います。このように、NHKから委託されている会社には、NHKは強烈に数字を挙げるように圧力をかけてきます。NHK鹿児島放送局も日頃から委託会社に数字のノルマ達成を厳しく指示していることは眼に見えています。委託会社の方は、ノルマが達成できなければNHKとの取引を解除されますから、当然必死になるはずです。 この事件の背景には、このような、日本の企業社会のどこにでも見受けられる構図があるからです。
 しかし、NHKとは、そもそも公共的な組織ではないのでしょうか。そのような使命を追っている組織が、そのあたりの利潤だけしか追求しない企業と同じようなことをしていいはずがありません。 ですから、今一度、このNHKという組織(そのバックには当然旧郵政省現在の総務省の役人たちと族議員たちが存在しているわけです。)を白紙に戻して、再出発させていくよう国民的議論をすべき時です。

 この事件には、もうひとつの問題点が潜んでます。それは、よく記事を読んでみると、契約書を勝手に偽造されたお客さんは、すでに地上契約はしていて、委託会社の社員は、地上契約を衛星契約へ変更する契約書を偽造しているわけです。それをお客さんからの通報でNHK側がはじめて認識したということは、NHK側はこのお客さん宅に、衛星受信設備があることを疑問に思わなかったということでしょうから、衛星契約として当然徴収してもよいと思っていたと推測します。ということは、このお客さん宅には、衛星放送を受信する設備(アンテナ設備)があることを推測させます。

 ところで、昨年の4月の毎日新聞の報道によれば、2011年度のNHK受信契約の総数は目標(ノルマということです。)には届かなかったものの、衛星契約に関しては、当初の目標を2万件上回る77万件の増加となったと報じています。ここがポイントです。
 NHKとしては、地上契約数の伸びを期待できないようで、受信料全体の総額を引き上げるには、衛星放送契約数を増やせばよく、結果としてはNHKの放送受信料の総額は上がるわけです。ですから、地デジテレビの全国一斉の導入を機に、CASカードによって全国のテレビを管理できるなシステムを整えてきたわけです。CASカードは、双方向的通信機能を持っているカードで、カード別に識別番号がありますので、一台一台のテレビにスクランブル情報を送ることができます。衛星放送を受信すると、画面に登録メッセージが出るようになっているはずです。
 日本国内で、テレビ放送受信機を所有していて、放送を受信している人々で、衛星放送受信設備を有しているにもかかわらず、衛星放送契約をしていない人々が、多く存在している思われますが、NHKはそういう人々にもターゲットを向けているのです。当然放送法によれば、衛星契約をしなければならないにも関わらず、地上契約だけして、BSアンテナを取り付けて受信しているにも関わらず衛星契約は頑として拒否する人々が間違っていることは当然ですが、こんなところにも、NHK問題の根深さがあるのです。受信料を徴収という本来の放送という使命からすれば付随的な行為に、大切な受信料を割いているようでは、公務員改革と同じ性質のものですから、 だからこそ、白紙に戻して出直せと言っているのです。戦後の莫大な利権構造のひとつの象徴的な組織ですから。

NHKと財務省

 NHKと財務省、この二つの公的組織は一見関係ないように思えますが、ある共通の性格を持っています。それはこの二つの組織に共通することは、私たち日本社会のダブルスタンダードの典型例として現れている病的症状です。

 前々回日本の法人税の納入率がわずか三割程度であることの話はしましたが、誰が考えても納得できる数字ではないと思われます。私が若いころ働いていた会社のオーナーが、ある時《企業というのは、社会に税金を納められて初めてその存在意義があるのであって、税金を納められない会社は、その存在意義などない》というようなことを言ったことを今でもよく覚えているのですが、
そうしますと、この人の考え方では、今の日本の企業 約240万社ほどあるらしいのですが、そのほとんどはその存在意義などない企業体ということになりそうです。
 竹中平蔵氏が日経BPの記事《第3回 政府はゾンビ企業を延命させ、淘汰を阻んではいけない》という中で指摘しているこのゾンビ企業が、日本には山ほどあるということになりそうです。本来でしたら、時代の変化の中で憂き身沈みしていくはずの組織を、政府がさまざまな既得権益の絡みの中で温存させているのではないかと思います。そして法人税は納めない。国の歳入が増えないから、国民に消費税を要求。こんなサイクルになっているわけです。結局私たち国民が、要らなくなったような企業や組織を税金で生きながらさえ、結果として成長するような企業体ではないから、国民への還元も生じない。国民の給料も上がらない、という悪循環に陥っているわけです。
 
 財務省のひとつの仕事に国家の歳入を管理することがあますが、企業、大組織には甘く、末端の国民には厳しく取り立てる姿勢は、NHKの受信料とまったく同じ姿勢です。
 財務省は、本気で日本の法人の法人税納入率が三割程度でいいと考えているとしたら、国民を完全に愚弄している発想です。法人税も収められない企業が七割も存在していること自体、自由資本主義社会においては、摩訶不思議な現実ですから、そこのところをまじめに考えてほしいと思います。一方、私人としての日本国民の七割が市民税、県民税など納めないで、済ませられるとすればおかしいと考えるわけです。しかし、相手が企業になると、いい加減なことしかしない。なぜこんないい加減な対応しかしていなのかは、賢い人でしたら想像できるでしょう。
 
一方、NHKの受信料のことですが、これまた杜撰でいい加減な姿勢で取り組んでいます。そもそもNHKの放送受信料というものは、放送法という法律によって、放送を受信できる装置に対して受信料が発生するというものです。勘違いの多いものとして、 NHKは見ない、民放しか見ないから受信料は関係ないという人々がいますが、NHKなど見なくても、放送受信機があれば受信料は発生します。
 そうしますと、例えばテレビという受信機一台ごとに受信料が個々に発生するわけですが、一般家庭に対しては一戸に付発生し、旅館やホテルなどの場合には、テレビ一台ごとに受信料が発生します。しかし受信機が複数備えてある学校など教育機関には特例になるようです。また一般家庭でも、同じ敷地内に親子が 別々の家を構えている場合には、それぞれの家に受信料が発生し、実際二軒分徴収しているようです。
そして、加えてデジタル時代の今日、カーナビ、ワンゼグ受信機、パソコンでの受信に至るまで、受信料が発生する器機を拡大してきています。
そうしますと、現在の日本で、このような器機を持っていないのはきわめて少ない人々に限定されるはずで、圧倒的に放送受信料対象者になるはずです。
ところが、現在のNHKの放送受信料契約数(契約という概念です)は、2011年では3765万件と発表しています。ちなみに日本の世帯数は2010年のデータでは、約5200万世帯、これに日本の法人数が約240万として、合わせて約5440万、このうち、受信機そのものがないところが数パーセント程度あるとしても、ざっと1000万件くらいは放送受信料の契約はしてないと思われます。
NHKの放送受信料の徴収も、強いところはさけて、弱きところに金をもらいにいく姿勢です。ですから、田舎、そして田舎の高齢者のところは契約数が高く、大都会では契約数は落ちる傾向があるということです。また、地域によっては受信契約に来られたことがないようなところ、家もあるはずです。ですから、時々都市部の住民相手に訴訟していますが、あれなど完全に見せしめのためです。新聞社とも連携して大きな見出しで報じてもらっているようですが。高々数人相手に訴訟していかにも大儀を訴えているようですが、それならば、なぜ全国津々浦々なべて公平に契約を貫徹しないのか、放送法という法律もさじ加減で運営している日本人の典型的な例です。それでも莫大な資金が集まっているわけですから、NHKの職員は自分の高給さえ保証される限りは、そんないい加減なことなど知らぬ存ぜずで、一方では社会の木鐸のごとく日々記事を書いたり取材しているのだろうと思います。

このように、一見関係がないこのふたつの日本を代表する組織に共通して見られる性格とは、法律というある意味理念というのが、現実には組織のさじ加減で運用されるという日本的特徴です。そしてそれは日本社会の根底にある特徴ということです。正義という理念が優先するのではなく、組織内の人間の随意が優先するという日本社会の原理です。

マスゴミについて

インターネットでは、マスコミのことをよく《マスゴミ》などど批判していますが、それについてはある程度私も同感です。
 それでも相変わらず日本のマスコミが威勢がいいのは、国民の皆さんたちが、そんなマスコミを間接的に応援しているからです。
 
 マスコミが本来の社会の木鐸としての機能を失っているのならば、新しいジャーナリズムを育むためにも、現在の既得権団体と化してしまっているマスコミ各社を増長させるようなことに、国民が加担するようなことをせず、距離をとっていくことが一番薬になるわけです。

 そのためにできることは、新聞を購読しない、テレビを見ないということです。マスコミのことを《マスゴミ》などど批判しているのなら、テレビなど見ないようにしたらいいと思います。テレビを見て、視聴率などに貢献するから、それを当てにして企業が広告を相変わらず出すことに意味があると思うわけです。テレビなどに広告を出しても対費用効果が少ないと企業に思わせてしまえば、放送会社の経営も厳しくなるでしょうから、企業として真剣に考えるでしょう。

 放送社と新聞社とを抱き合わせるようにして、放送免許制度の下で、日本の言論を管理しようとしたのが、田中角栄の功績だと言われていますが、この改革のおかけで、日本の津々浦々まで、放送と新聞社が同じ企業組織の下での経営状態となり、それを総務省を通じて支配するという構造が出来上がります。
 地方では、放送と新聞社はそれぞれの地元で、不動産開発や交通網など、はては人材派遣会社などさまざまなグループ企業を傘下に、地方の経済を実質支配する形になっています。それと今回騒がれている各電力会社がその上に鎮座している構造になっています。
 国民の皆さんが、ありがたい、ありがたいと思いながら、新聞を読んだり、テレビを見れば見るほど、この構造強化に貢献していることになります。そして日本は貧しくなっていくばかりです。 ですから、いくら言っても聞く耳を持たない彼らに、少しは反省をと考えているのなら、できる限りテレビなど見ないようにすることです。なければないで、生活の中にもっとやれることが再発見できて、かえって今までの生活とは違った豊かな生活になってよくなるはずです。
 そして、本当に困れば、そのような中から、真のジャーナリズムなり、ジャーナリストたちが現れてくることと思います。私たちは、そういう動きを応援すべきです。

 私の家にはテレビは、3・11と地デジ移行を幸いに、なくなりました。それまでもテレビはほとんど見ていませんでしが、テレビそのものを処分しました。テレビなど見なくても何の不自由もしません。インターネットで調べたり、本を読む時間が増えて、じっくりと問題について追跡できるようになり、かえってありがたいと思っています。

裏帳簿は昔からあった。−『裏』と『表』からなる日本の社会

 日本国は、表の財政帳簿と、裏の財政帳簿がどうやらあるらしく、表の財政帳簿からすれば、皆さんご存知のとおり、わが国は大変な財政状況らしいのですが、どうも裏帳簿もあるらしく、日本の借金というか、日本国の財政状況の本当の姿というのは、正しく国民には伝わっていないのではないかと思います。
 ところで、財務省(旧大蔵省)の役人だけが、このような裏帳簿に長けているわけではなく、多くの企業の中にもご多分にもれず、表の帳簿と裏の帳簿というものが存在しているはずで、高橋洋一氏が指摘しているように、日本の企業の法人税納入率がわずか三割であることの実態などは、このことを裏書していると思います。 これは私が実際に体験したことですが、私がシステム設計の仕事をしているときに、とある事業所の社長さんから、経理システムを作ってくれないかと依頼を受けたことがありました。そこで会って話をしているうちに、どうも表の帳簿と裏の帳簿がうまく連動するようなシステムを作成してくれということのようだとわかり、お断りした次第です。また、実際に私の住んでいる県の法人税納入率は約4割くらいと、ある税理士から聞いたこともありますので、先の高橋洋一氏の指摘していた法人税約3割は、実際に財務省にいた経験からみた真実の姿だろうと思います。
  また、企業だけでなく、個人に至っても、税金のごまかしなど後を絶たず、企業から個人に至るまで、この国の住人は、建前としての納税の義務という日本国憲法の理念と、実際やっていることの乖離が大きくて、上から下までモラルなどそもそもない、という点では、日本人がよく批判する中国人のモラル荒廃に、負けるものではないわけです。結構いい勝負していると思います。
日本の企業の三割しか法人税を納めていないという事実を聞いて、この国では、毎日のようにどこかで、せっせと、『裏帳簿』を操作しているのだろうと思います。日本の消費税がヨーロッパの国々のようにインボイス方式になっていない理由は、財務省が管理が面倒くさいだけてなく、多分企業側の裏帳簿も大きな要因だと思います。したがって、今回の消費増税で、末端の国民から搾り取った消費税が、まともに国庫にストレートに納められる保証はないと私は思います。どこがでババ抜きが行われる慣行がこの国の習い性だからです。だから、私は消費税という増税方式には反対で、税収を上げる確実な方法は、現在税制優遇を受けているさまざまな団体や業界の優遇策を撤廃すること、オバマ大統領と同じように、富裕層の税率を昔のように高率へと引き戻すこと、それにもまして、法人税など、企業や団体からとり損なっている税金を着実にとることです。国民に増税を押し付けてくるのは、それがまともになってからの話です。

ところで、この日本人の裏帳簿の慣習について考えるとき、『裏帳簿』は決して現在の日本人の専売特許ではなかったんです。今回は歴史的に見てみたいと思います。
 網野善彦氏の『日本論の視座』(小学館ライブラリー)という本によれば、戦国期からこのような帳簿の二元性は存在したようです。 おもしろいので、ちょっと長いのですが、引用させてもらいます。

― さまざまな帳簿類の工夫、発達を通して、百姓や町人の経営・家計の維持、発展の上に大きな寄与をし、また戦国期から見られたような領主側の年貢等の賦課に関わる帳簿 ― 「表」の帳簿に対し、村独自の多様な「裏」帳簿を作成して、自らの生活を防衛する知恵を発達させた。建前の上で見る限り、水ももらさぬ世界無比の専制体制といいうる幕藩体制が、300年も続くことができたのは、町人や百姓たちのこうした知恵による生活の防衛、維持、発展があったからにほかならない。この意味で、300年の「専制」の下にきたえられ、日本の庶民はたぐいまれにしたたかで巧みな「表」と「裏」の使い分けを身につけてきた、といえるのかもしれないのである。
−『日本論の視座』(小学館ライブラリー)網野善彦著 より

 この一節は、日本における文字の普及による影響を述べたところです。文字が百姓の名主クラスにまで普及するにおよんで、村の保全を守るために文字を使用して文書の改ざんが巧みにできるようになったことを意味しています。 このことが、現在までも日本の公的な世界が社会全体に一元的に貫徹していない原因でもあると、氏は言及しているわけですが、全くそのとおりです。 日本の百姓は悪代官に搾取されかわいそうな人々だったんだ、というイメージは現在の私たちの脳裏に刷り込まれているようですが、百姓はそんな軟弱、純朴な人間じゃありません。 中学程度の日本の歴史の知識があればお分かりのように、室町時代から戦国時代にかけて、あちこちで一揆が起きています。なかには領主を追放して自治を行う村も出現するわけです。このことは、百姓がかなり独立精神がつよく、村の世界が彼らにとって独立した世界を形成していることを意味します。 また、戦国時代まで、敗戦の武士を襲う習慣もあって、『落武者狩』といわれ、皆さんご存知のように明智光秀も農民の手にかかって最後を遂げたわけです。武士としてはあっけない最後です。武士にとって、百姓は、支配の対象であると同時に、自分たちが襲われることもありうる、そういう対象でもあったわけです。ですから、戦に負けて逃げる武士にとっては、追いかけてくる敵も脅威ですが、周辺の百姓も恐怖なんです。 しかし、農民が領主の支配に対して独立した気運を明確に示すのは、室町時代前半で、戦国時代後期には、それまでの守護に代わって、土豪や地頭などの直接その地域を支配する戦国大名に対しては、運命共同体の一員として奉仕するようになります。 戦国大名にとって、百姓との関係を上手く保つことが、もっとも大切な経営方針だったようです。百姓との関係が上手く行かず、こじれると百姓が領主に対してボイコットするわけです。こうなると、年貢はうまく徴収できないわ、戦の兵士は調達できないわで、事実上領主政権が崩壊するわけです。 織田信長の時代には、有名な石山本願寺の虐殺もおきています。これは、石山本願寺のトップ、蓮如があくまで織田信長に抵抗しようとしたので、信長は石山本願寺に立てこもる一向宗信徒を焼き尽くす事件です。当時としては、宗教の世界に手を出すことは、武士にとってはタブーだったのですが、信長はそれを実行したわけです。焼く尽きされた人々のなかには、大勢の百姓がいるわけです。とてもタフな百姓なんです。だからといって彼らが『タフマン』や24時間闘える『リゲイン』を愛用していた歴史的事実はないようです。会社に生き血を吸われ、生きる屍のような、現在のサラリーマンなんか足元にも及びません。 江戸時代になると幕府によって徹底的に服従させられ、『生かさず殺さず』という思想の下に、日常の生活にまでこと細かく規制されます。有名な『慶安御触書』で徹底的に百姓を規制したにもかかわらず、逆に先の網野氏からの引用文にもあるように、ますます百姓は強靭になっていくのです。 代官に提出する『表』の帳簿と、村や部落の『裏』の帳簿で、自分たちの生活を防衛する強靭さと狡猾さを育んでいくことになるわけです。とても、テレビドラマ『水戸黄門』に描かれている子羊のような百姓ではありません。

 今度は、閉鎖的な集落に住んでいる百姓のもつ二面性を見事に示している例を挙げておきます。これは、世の中では作家と分類されていますが、私は立派な文化人類学、社会学者と考えている、きだみのる氏が現在の多摩地方のある部落に住み着いて観察したものです。非常によい例です ので全文掲載します。時期は戦後の間もない頃だと推測します。 

 ―子供がある日熱を出し、食欲が無くなった.卵でも食わないかというと、卵でなら食うと答えた.私は里に降りてオコン姐に卵を分けてくれと申し込んだ.オコン姐は「何にするだよ」と訊ねるので、子供が熱を出して云々と有りのままに云うと、「はあ、そうけえ。子供が熱を出したかよ。そらあ心配だべえ。卵はいまこれったけあらあ。持って行きな。検温器も無かったら持って行きな」と卵が八つばかり入ったザルと、検温器を出し、「銭は要らねえや。困った時はお互いっこだよなあ」とつけ加えた。私は田舎の純朴を彼女の中に見た. 次に私は同じオコン姐にまた卵を頼んだ。何にするのよと聞くので俺が食うのよと答えると、此度は闇値の最高価格を支払わされた。彼女は、部落の評判通りの強欲さを示したのだ.
 ―   『日本文化の根底に潜むもの』(講談社)きだみのる著 より

 明治維新まで、日本の人口の8割はいわゆる農民です。支配者階層の武士は5%なんです。そして、明治維新によって『四民平等』ということになって、日本人はほとんど『平民』になります。 現在の都会に住んでいる人々のほとんどは、その歴史的背景に『百姓』の歴史を背負っていると言っても過言ではありません。京都など例外的な都市を除けば、日本の都市文化とは、その根っこのところでは『百姓文化』と言えます。戦後の高度成長によって地方の農民が一気に都市へ流れ込んできて、ますます、『百姓文化』の色合いが強まります。(注:網野氏の研究によって、百姓=農民ではないこともわかりましたので、お断りしておきます。)

 最後に、末端の百姓クラスの人々だけが、表の帳簿と裏の帳簿を使い分けて、巧みに世の中を生き抜いてきたかと言えば、そうでもなく、支配者側の二重帳簿作戦の代表的なものが、例の長州藩の《撫育局》というものです。
 これは、長州藩第七代藩主毛利重就によって創設されたものですが、これは当時の長州藩の財政危機を乗り切るために、藩の増収のために、新たな事業の創設などに投資していけるように、本来の藩の表の会計から独立させて運用させていきます。表の会計に載せると、負債分に取り崩されていくからです。それに藩の財政難を家臣たちに納得させ、藩士たちから上納金など、現在でいうところの、給与カットや増税の大義名分ができるというメリットもあります。長州藩は、毛利重就のこの改革によって息を吹き返し、この路線は村田清風などへと受け継がれて、幕末の歴史に華々しく登場してくることになります。
 私は、薩長藩閥政治のころから、旧大蔵省は、このような方法を歴史から学んでいたのではないかと思うのですが、これが、財政投融資のような隠れ財政へと受け継がれてきた大きな歴史的背景ではないでしょうか。しかし、悲しいことは、毛利重就の情熱と大蔵省の役人たちの低劣な意識の違いは、歴史の大きな誤謬だったということでしょう。

   日本人の表と裏の帳簿は伝統的なもののようで、現在の日本で、ほとんどの会社、官公庁などに『裏』帳簿があっても、別に不思議ではないわけです。現在の日本人のほとんどの人々は、その歴史をたどってみれば、例の強靭な『百姓』だったわけですから。 情報公開の気風が進んできて、税金の使途を明瞭に公開する自治体もぼちぼち現れてきましたので、今後日本の社会も徐々に変わっていくかもしれません。しかし、その情報公開への抵抗は、これまでの歴史を振り返ってみれば、一筋縄ではいかないと思います。必ず抜け道を見つけだす、狡猾さも持っているわけですから。 公的な税金の使途については、市民オンブズマンのような人々の活動によって、徐々に情報公開への道も開けるかもしれませんが、民のほうの帳簿の監視については、これは事実上現在も近い将来的にも不可能ではないでしょうか。 これは末端の国民の意識から、教育によって変えていくしか手立てはないと思います。 もし本気で日本が、公正な社会を目指したいと思うのであれば。

(法人税納率約三割という実態は、裏帳簿の存在というより、むしろ会計操作という専門技術によるものと思いますが、私はそのような操作そのものも含めて裏帳簿と言いたいのです。 その操作そのものをお手伝いしているのは、専門家たちではないかと疑います。本来でしたら、公正さを保証していくものが、仕事ほしさ、金ほしさに、いかがわしい操作に加担するいうのが、日常となっているのではないでしょうか。先のオリンパスに関わっていた会計事務所などその例です。南米のある国では、昼間は警察官で夜は泥棒しているということを耳にしたことがありますが、日本も本質的には同じようなことだと思います。税理士、会計士、国家の会計検査院、検察機構からはては裁判官に至るまで、すべてとは言わないまでも、自分たちの保身を、任務としての正義遂行より優先している連中がいるといういうのも、さまざまな不祥事から見えてくる事実です。 そして、このような社会の雰囲気を許している根底には、国民全体の、理念より目先の利益優先という日本社会の特性があるわけですから、それを変えていくには、昔の啓蒙思想の楽天的な考えではないですが、時間はかかっても教育という手段しか残されてないと思います。制度設計も大切ですが、それを運用する主体としての国民の意識が、土人社会―宮台真司氏はいみじくもこのようにくくっていますが私も同感―のままでは、どうしても限界があり、猫に小判、ぬかに釘でしかありません。)

二足歩行は人類の《意志》の結果

本日の朝日新聞で、京都大学など四カ国の研究チームが、普段四足で歩行しているチンパンジーが、えさを欲張って運ぼうとするとき、二足歩行になる率が四倍になるという結果が発表されていましたが、この記事を見たとき、私は、昔読んだ今西錦司氏の言葉を改めて思い出しました。
 今西錦司氏は、今西進化論を提唱した学者として有名な人ですが、学生時代に読んだだけですが、進化論に関心を持っていた私は、さまざまな進化論の説を読んでいた中で、たまたま彼の進化論に出会いました。
 本のタイトルは失念しましたが、その中の最終的結論として、なぜ人類はアフリカ大陸の森の中から平原へと進出する過程の中で、二足歩行が始まったのかという問題に対して、次のような意味合いのことを結論として述べていたと思います。
 《二足歩行しようとする意志が、そうさせたのではないだろうか》というようなことだったと思います。私は、これを読んだとき、彼の鋭さに感じ入り、それなりに納得していたことを記憶しています。

 現在、人類の進化については、DNAなどの研究成果によって、アフリカからどのように世界に拡散していったのか、ある程度明確なイメージが描けるようになりました。しかしそれでも、われわれの先祖が、アフリカの森の中から、どうして(why,how)サルから人間になっていったのか、その瞬間的な出来事については、何もイメージはないわけです。
 ポルトマンの提唱した《生理的早産》の仮説にしろ、それはとても説得的なものですが、その仮説も人類の二足歩行の結果として生じたと考えているわけですが、それでは、その二足歩行はどのようにして実現されていったのか、説得的な解答はないわけです。平原での防衛上、生存競争上という説明はありますが、なぜ人類は立ち上がったのかという問題についての直接的な解答にはなっていません。

 そのような悩みの中で、私は今西錦司氏の今西進化論に出会い、彼の二足歩行へのある意味では、結論のようなものに触れたとき、一介の生物学者というより、哲学者としての世界観を垣間見た思いがしました。

 今回の朝日新聞が報じていたニュースは、今西錦司氏の直感というか達観の世界を改めて、裏付けているようでなりませんでした。うまいものを誰よりも手に入れたいというチンパンジーの《意志》だったという報告では、しかし 実証主義的科学的報告にはなりそうにはなりませんが。

末は博士か大臣か

昔は、《末は博士か大臣か》と呼ばれていた時代もありましたが、はるか遠き昔のことかと実感する今日この頃です。
 
 3・11以降、マスコミに登場して福島は大丈夫とか、それまで散々原子力は安全と、批判する良識ある人々を罵倒し尽くしていた権威ある学者先生たち、そして、都合が悪くなれば、雲隠れに、言い訳ばかりと、自己保身にかけては天才的才能を示し、責任はすべて他人任せで、もらうものは抜け目なく貰って、今日も大学者先生よろしく、似たもの同士の学生相手に講義を講釈していることだろうと思います。
 一方この国の大臣はと言えば、国民に知られたくないと議事録すら残さない、都合の悪い事実は隠す民主党の大臣各位の面々。国民との約束は口先で、政権とるまでは国民にはお世辞を並べ立て、政権とってしまえば末端の国民のことなどどこへやら、せっせと既得権益の保持拡大へとまい進する民主党の大臣各位。

 この人たちにも、希望に燃えていた若き純粋な時期があったのだろうかと思うこの頃です。若き学生のころ、この人たちは何を学んでいたのでしょうか。一度でも宗教とか、哲学とか、そういうテーマに頭を使ったことがあったたのでしょうか。学校という制度が与える定食ばかり食って、これで頭は大丈夫と安心しきっていたとしたら、救いようのない馬鹿です。

 現在の彼らの言動を見るにつけて、人格というものには、ほとほと縁がないような人々と思うのですが、これが太平洋戦争に敗戦し、その反動から精神的世界の重要性を捨て去った民族のなれの果ての現実です。
 目に見えるもの、数理的データ、偏差値、物質、性欲、物欲、金と権力しか、人間の生きるべき価値として設定できなくなった民族の成れの果ての姿ということなのでしょう。

増税と行政改革は交換条件

民主党は、公務員改革、無駄な行政の改革をするということで、国民から信託を受けて政権与党になったということをわすれているようですが、民主党の政治家たちが忘れているようならば、私たち国民が記憶しておいて、次回の選挙で判断をすることをくれぐれも忘れてはいけません。日々、政治家たちの言動には目をくばっておく必要があります。
選挙公約に違反するようなことをしておいて、開き直って政治をやられて、仕方ないで済ますようなら、日本国民は心底 馬鹿ということになります。
こんな国民に民主主義社会を営む能力も資質などないわけですから、将来の日本もどうなるか知れています。
   
   次の選挙は日本にとって、私たち日本人、私たちの子孫にとっても、大きな意味を持つことになるだろと思います。いつまでも、思考停止のままで、他人任せで、それでいて、いつまでも繁栄のおこぼれを頂戴できるほど、歴史は甘くはありません。明治から約150年ほど、先の敗戦から約60年ほど経過して、本当に日本国民にとって試練の時が来ようとしています。

民主党は解散総選挙して、国民と対峙せよ

 消費税法案が国会に提出されましたが、与党の民主党は、先の総選挙で、断固たる行政改革を行い、無駄を徹底的に省き、消費税は行わないと断言して政権を国民から《信託》されたわけですから、その国民との約束に反することを行ってる以上、民主党は、選挙という民主主義的手続きを冒涜しているか、うそも方便と考えていたのか、国民をはじめから愚弄していたのか、いずれかだろうと思います。

 日本における民主主義手続きである選挙いうものをこのように考えていたとすれば、この民主党という政党にもはや政権政党としての正統性はないわけです。それを財務省あたりの官僚が背後から入れ知恵して指図しているとすれば、国民を所詮馬鹿か犬や豚のごとく どうにでも操れると考えているのだろうと思います。国民もそこまで馬鹿にされ、愚弄されていることを今一度思い起こすべきです。それでも、国民もこんなものかと諦めるとすれば、こんな馬鹿な国民は、これからもだまされ続けていくしかないのだろと思います。
  
 中曽根総理大臣のころからの日本の政治改革のテーマであり続けてきた《行政改革》は、いつのまにやら《税改革》に成り果て、気がつけば省庁は減るどころか、増えてしまって、役人たちの縄張りが増えていたということです。
 予算も減るどころか逆に増えてしまっていて、締めるところを締めずして、相変わらず放漫経営を放置して増税するとすれば、税収は結果として増えるどころか減少するはずです。要するに、既得権益にかかわる連中のところには手をつけないで、予算の足りない部分は、官僚たちが犬や豚と考えているらしい末端の国民になすりつけてしまえということです。
 一方、一時マスコミにしきりに取り上げられた、某大臣取り仕切る(大臣の名前すら失念しました)《・・・》という、これまた名前すら出てこないほど、今となってはどうでもよかった無駄な予算の仕切りをしていたようなことは、所詮馬鹿な国民向けの一大パフォーマンスだったことも明らかになってしまいました。
  
  既成政党も駄目、社会の木鐸としてのマスコミも《マスごみ》みたいとなっては、残された道は、日本人が一人でも多く、自覚をもって政治にかかわっていくことです。 国民が政治に関心を持つこと、関わることを極力遠ざけてくるように日本人をこれまで教育してきたわけですが、政治と生活は切り話せないのですから、自分たちの生活を防衛したいのであれば、これからは生活の一部、生きるということの一部として、政治に関心をもつことです。

大学生に勉強させる―続き

先日アップした記事―大学生に勉強させると褒美の記事つにいては、続きがありました。
 今後のグローバル化に対応できるよう、大学生の《知性》を鍛えるべく、問題解決能力を鍛えるような指導導入を進めるようにと言うことですが、これまた、現場を知らない人々たちのたわ言ですので、一言申しておきたいと思います。

 そもそも明治以来学制改革を行い、今日まで連綿として続いている、日本の文部省による教育の理念とは、ひとえに従順な日本人を製造することに尽きます。教科書や権威をそのまま丸暗記していくことが求められてきたわけですし、これは現在も変わません。その教育目標は、国家の言いなりになれるような馴致しやすい国民を製造していくということです。実は、これは明治国家の、正確に言えば薩摩長州藩の革命生き残り組みの残りカスの人々が仕立て上げてきた指導方針にすぎないわけですが、この理念が敗戦責任処理もあいまいにしたことで、戦後もしぶとく生き残って、現在に至っているわけです。

 教科書という官製の知識を詰め込むだけで、優等生になれるように仕組んである日本の社会の中で、物事を根底から考えたり、批判的に考えていく思考訓練などはじめから、禁じるような教育をしておきながら、いざ大学へ進学して、はい今日からはグローバル的に思考しなさいというのはマンガの世界でしかないでしょう。
 
まともにものが考えられる人間に育てたいのであれば、小中高校と、ノルウェーのように、物事をどのように見ていくのか、そのような教育に重点をしていくべきです。物事を考えていく際に、基本的な知識はどうしても必要になりますから、そのような観点で基礎知識の暗記をさせていくべきなのです。しかし、日本では逆さまになっていて、わけのわからないうちに、どんどん教科書という官製のパラダイムを刷り込まれていくわけです。受験勉強に精出して、大学に進学したところには、完全に自由な思考活動は破壊され尽くされ、コンクリートのような硬い頭になっています。そんな受験勉強をさせながら、大学に入って、国際的に通用しないから、さてこれでは困ったものだと嘆いてみたところで、自業自得です。悲劇を通り越して、喜劇の世界です。
 もはや日本人の学生なんかではだめだから、インドあたりから優秀な頭脳を引き込もうと、東大が秋入学なんかの姑息な手段をぶち上げても、笑いものです。そんな駄目な日本人学生を製造させるように仕向けてきた当の最高学府ではないですか。
 早い話が、現在の大学受験の入試方法を根底から変えてしまえばよいのです。そうすると、それに合わせて下位の、高校、中学と入試スタイルを変えざるを得なくなるはずですが、これまた、今の日本では、公務員改革と同じくらい絶望的だろうと思います。教育業界も、立派な業界であって、多数の利権が絡み合っているからです。
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